悔いの残る 悲劇

最初の長女の名前は優子。

長男とも元気にすくすくと育ってくれ、
私ら夫婦は喜んでいた。

女の娘が好きだった私は一男一女に
大満足だった。

母の病気も峠を超えて一安心した時、
神様はこんな過酷な試練を私らに与えた。


『それはなぜ? また私の家族なんですか?』
と聞きたくなった。

異変が長女優子に起こった。

この娘が確か2才になる前だったと思います。

女の子なのに言葉が少し遅い、前から思っていたが
さほど気には留めていなかった

叔母ちゃんの指摘もあって気になりだした頃、

その優子に痙攣が起きた。

びっくり驚き、夫婦して慌てふためいた。

そして病院へ行くも結果は子供の頃よく起きる
発作だと云われ、まずは一安心した。

でもこれが、ある病気の前ぶれに
過ぎなかったのである。

私ら夫婦は、そんな事など気に留めず、
仕事に精を出す日々でした。

そうこうして2ケ月が経った頃です、
二回目の発作がまた起こった。

今度は前より酷く、きつかった様に思った。

発作で舌を噛んだらいかんので
私は慌て自分の指を優子の口に入れた。

凄い力で優子は私の指を
噛んでいた記憶が今も印象に残っています。

小さな口に
私の指2本はキツかったが、
必死になって私は入れた。

顔面は真っ青で目は宙を見、
体を反り曲げ、小刻みに震え痙攣をしていた。

凄い形相である、
生きた心地のしない瞬間だった。

死闘の末、治まった時には
私ら夫婦は何とも云えない恐怖に
震えるしか、なかったのである。

若かったからでしょう~
でも
私はその時、ただの発作ではない
と直感してしまった。

病院の最初の診断は誤っていたようだ。

しかし原因が判らず、
あちこちの病院へ行った。

病名すら判らなかった。

だから薬もない、不安な日々は続いた。

しかし発作は容赦なく、優子を襲った。

そのサイクルが前より早くなっている様に思え、
気を抜けない毎日でした。

寝返りを打たれても
ビクとし、クシャミをされても目が覚めた。

最初の発作から半年が経つのに
病名すら判らない。

医者は神経系であると云うだけで
はっきりとした病名を云わなかった。

嫁は誰から聞いたのか、優子の名前が悪いと
云いだし、友紀子に変えた。

藁をも掴みたい妻の望だった。

しかし友紀子に変えても発作は治まらなかった。

でも慣れと云うものは恐ろしいものである。

嫁は要領を掴み、手際良く
治まるのを待った。

割り箸をガーゼで巻き、 たえず常備し
いつ発作が来てもいい様に万全だった。

私も恐ろしかったが、
以前とはずいぶん違ってきた様に思えた。


そしてどの病院だったか、もう忘れましたが
こんな事を一度聴かれた。

『小さい頃、高熱を出された事はなかったですか?』

それを聞いた時、私はドキッとした。

ある日の事を思いだしたのである。


優子が1歳になる前でした。

風邪をひき真夜中、車で病院まで
連れて行った事を思いだした。

肺炎を起したらしく、嫁が付き添い
1週間ほど入院した。

しかしすぐ元気に退院して来たので、
別に気に留めていなかった。

がその時、
確かに高熱を出していた事を思いだした。


41度ぐらいまで熱が出たと
嫁が云っていたのを私は覚えていた。

それを医師に告げると
たぶん原因はそれであろうと云われたのである。

その時、未熟な脳はその高熱に
ヤラレてしまったのかも知れません。

そして発作を抑える薬は
頂くことができたが、
脳の障害は依然不明のままでした。

薬を服用する様になってからは
発作の方はずいぶん減りました。

丸っきり起こらない事はないが、
減ったのは事実でした。

多分、強い薬だったのでしょう~ね

これは今だからわかる事かも知れないが、
当時26,7才の私には知恵遅れになっていたとは
理解できていなかった。


ただわかっていた事は、よその子供より発育が
遅いとしか感じていなかった。

でも3歳になっても、
あまり言葉を云わなかった。

しかしこれは薬のせいだと思い、
まだ高をくくっていたのである。

そんな時、四国の叔母さんが云った言葉が
この娘はちょっとおかしいと云いだしたからである。

これは実の母だから云えたかも知れないが
私には強烈に堪える言葉だった。


『あなたはいつも傍に居るから、
気づかないかも知れないが…絶対おかしいよ!』


実母は見るなり
すぐ感じたらしく、私に伝えたのである。

親は伊達に歳をとっていない、
知恵おくれだとはっきり指摘した。

確かに厳しい言葉ではあったが、
これが事実だったのである。

私ら夫婦はこれからこれを現実に
味わって行く事になった。

その後医師から、
情緒障害と云う答えが出たが
それを理解するにはあまりにも難しく、

実母が云った知恵おくれが
私には判り易かった。

そう云われて見ていると
やはり優子は知恵が遅れていた。

哀しいはなしではあるが、
これはまぎれもない事実であった。

また厳しい現実に私は対面する事になってしまった。

もっと早くに気づき病院へ行っていれば、
良かったと後悔するしかなかった。


優子が病気になってからは、
我が家は大きく変ってしまった。

2件目の店を出して
から幸せだったのは
,3年だったかも知れません。

母親が倒れた事から始まり、
自身の子養子を知り、長女の病気まで知った。

その後、私の酒の量は増えだしていった。

そして母の2回目の入院、これで全ての歯車が狂った。

つづく