父親、失格!

子供異変が起こったのは満3歳をえてすぐであった。
お腹の不調える子供を病院へ連れて行き、急きょ入院となった。
検査入院
だと私は軽い気持ちで受け止めたが、これが大変な病気である事を知らされた。
病院の一室に呼ばれた私と妻は担当医から【 小 児 が ん 】と告げられた。
満3歳をえた可愛いりの子供にそれはあまりにも告知でした。
私にとってもこれは地獄宣告となった…

その時の事を何と云って表現したらいいのか~
言葉
が見つからない。文字にもできない。ただ茫然を立ちすくんだ。

日に日に、お腹は大きくなり、今にもかれんばかりになっていく。
こんな状態なのにお腹を切る事もできない、もうお手上げ状態である。
病院も手のほどこし様がなかったみたいでしむ子供をその時は見ているしかなかった。
なんとことか、のムシロにらされている日々が続いた。

願いはただ一つ、がんが少しでもいてくれる事を願うしかない。
しかしがんしても余命はあと3ケ月に気丈な妻も、泣きれた。

その後、地獄日々を送って行く事になった。
以前、母が危篤状態になった時とはべものにならない苦痛が私をった。
その母も、この子供が3歳の誕生日を迎える1週間前の3月15日に他界した。
8年もの長い間、病院のお世話になり
病院からやっと解放されたのも束の間、今度は子供がお世話になってしまった。
本当に皮肉宿命を私は背負わなければならない。

これは本当に宿命なのでしょうか?
それとも私がこうなる様にしてしまったのか?
こればかりは誰も分らない事かも知れない。

神殿を燃やした罰なのかもわからない。

抗がん剤の影響はキツク、髪は全部けしまい、
ベットの上で何度も嘔吐を繰り返した。
大人の人間なら投薬を止める位、副作用がきつい。

われるものなら、私がわってやりたいと何度思った事か!
余命
だけを見続けるさなんて、それは残酷しかない。
小児がんの医学書まで買ったが、何の気にもならなかった。

生きて行く全て失くした様に私は思った。
仕事
え病院へ行く途中、私の頭は色んな事がった。
それもくなってしまう事ばかりで、に何度もなった。
妻は、終日病院で生活をする様になり他の子供は実家に行き、
私一人が誰も居なくなった家にひとり居た。

我がの苦しむ姿は、見るにびなく
一人で帰る車中も心がめつけられる思いの日々だった。

ずかしい事ですが私は、この日々にえられなくなっていく。
酒をらい、我を忘れるぐらいい、毎日ボロ雑巾になるほどった。

ホント男は弱い動物ですね~
イヤそれは私だけかも知れません。
酒にげ現実からとした毎日でした。

悲劇
主人でもじようとしていたのか、
今から思えば何んかけない姿でした。
自分をごまかし、ごまかしてきていたみたいです。
いつ結末れるのか~くてくて私は仕方なかったのでしょう、
妻はいつも子供のにおれてかったけど…
仕事をしながらの私は、心の場所った。
もう商売めてしまおうかと何度思った事か、そしてその時こんな事を思った。

縁起
でもないが、もし子供がんだら子供の分まで妻を愛してあげよう~
それは本心、心の底から思ったである。
もう子供はらず、二人で仲良く生きて行こうとね!

そう思う事で子供の死を覚悟したのかも知れません。
その時ほどあの恐い妻を愛し、そんな素直な心になれたのも初めてでした。

子供
がお母さんを大事にしてネって、私にお願いしていたのかも分かりませんね。

その時の胸の内を、ちょっとでも妻にえておけば、
かったかも知れないと後悔するのです。
でも死んでしまうなども妻には出来ず、
うことで自分をごまかした。

ホントれはです。

そんな思いで1ヶ月が経過し行った。
子供容態は抗がん剤がいてきたのか少しおが小さくなった

そして子供の体に、少し変化が起こり始めたのだ。
主治医
からの説明にかすかな光ともとれる言葉がせられた。
この抗がん剤でがん細胞は、がらず逆にんできている様子と聞かされた。
今回の抗がん剤が子供の体質に複した。

抗がん剤の投与工程かにわけて行われ、その都度副作用は起こる。
しかし効いてきたのか、工程を繰り返す
がん細胞は小さくなってくれた、薬が適応したのだ。

主治医からのその言葉は、ッぷちに立たされた二人には、いの言葉になった。
上手
く行けば手術ができるかも知れないと希望の光が見えた時でもあった。


そして2ヶ月が経過して行き、余命3ヵ月の日も過ぎた。



しかし薬が適応しただけにすぎなかった。
余命
3ヶ月はあえず解除になったが
きがん細胞は心臓近くの大動脈いていた。

いはえてきているがれてはくれない。
離れないり手術も絶望的である。
依然
、生と死の狭間である事には、何ら変わりはなかった。

そんなとなりの無菌室にいた女の子が白血病で亡くなり、
お友達になった男の子も相次いで死んでった。
とてもい現実である。

子供の死、それは何ともい様のないれに無情さを私は感じた。

同じ無菌室の病棟の中で人様不幸を目にした時、
次はの番かと思うしかなかった。

くなった親御さんの心中が痛いほど分かっただけに、私もかった。
何とかこの恐怖から私はげたかったのである。

そんなある日、私は意外行動をしてしまった。
何処かへ行ってしまいたい衝動られた。

「逃げたい!」
その思いがこんな行動をとらせたのか、

これが逃避行と云うヤツなのか?

私はすべてを放棄し、病院へも行かなかった。
店は従業員に任せ、この現実から逃避しようとした。
行き先など何処でもよかった、
ただ無性何処か遠い処へ行きたかった。

しかしその時、私のとった行動がこれから非難された。
あたり前のことでしょう。

子供がこんな病気の時に自分だけ逃げようとするなんて、
それも女連れの逃避行じゃ、話しにならないね。

犬、畜生も劣る行動を私は取ってしまった。
何と云われても仕方ないことです。

自分さえ良ければとう考えしかなかったのかも知れません。

そして連れて出た女性は以前から私にすり寄ってきていた女性。
それほど興味のある娘ではなかったが
その娘と一晩飲み明かした。

気が付くと私はその娘と新幹線に乗り大阪へ行っていた。
そして又二人で酒をカッらい次に行ったのが伊丹空港。
そこで手にしたものは沖縄へのチケット二枚だった。
正直
女性だって別にこのでなくてもよかったし、
だって何処でもよかったみたいである。

ただの出発便沖縄きにすぎなかった。
服装だって二人とも普段のまま、着替えのカバンも持たずの旅である。
二日間も飲み続け、私は酔っ払い状態だった。
何の前ぶれもなく、こんな奇妙な行動は私にも説明できない。
今から思えばこの女性もいい迷惑だったかも知れません。

こんな事までして現実からげたかったのも知れないが、
結局は何からも逃げられなかったのである。

沖縄に着いて二日目の夜、ホテルのラウンジでまた飲んでいた時
ふっと、ある人の事を思いだした、
その人の名は女優 高橋恵子、旧姓 関根恵子

以前からの知り合いで子供が入院した時、お見舞いまで来てもらったりした人。
その恵子さんがその時、私にこんな事を告げられた。
子供の病気が大病だっただけに恵子さんも気に留め
神様に見てもらったらしく、これは先祖の因縁かも知れないよ!
それもその因縁が、すずめだと云われた時には一瞬ぞっとした。
昔のご先祖がすずめを虐めたのかも知れないから供養してあげて下さい。
そんな事を云われた。
それは昔のご先祖じゃなく、今の嫁と違うのかと考えさせられた。
あのホテルの一件の時、すずめの実家へ大変な迷惑をかけた上、すずめを随分虐めた。
そしてその時に宿した子供がこの子、これって偶然なんだろうか?
とても奇妙な事を恵子さんはその時に云われた。

そんな事を考えながら、彼女も関根恵子の時代に
愛の逃避行で世間をずいぶん騒がせた人だったなぁ~と思い


無性に恵子さんの声が聞きたくなり、電話してしまった。
の頭がになったのでしょうか? 正気沙汰ではなかった。

電話は繋がったが恵子
さんは、強い口調

『あまのさん、なにをえてるんですか 』

『そんなにおらんとすぐ東京に来なさい!』

『明日一番の便で来るんですよ!』、

『私は空港へえに行くから必ずくるんですよ!』

と怒られ、愛の逃避行を聴くどころではなかった

その言葉がやりのない私にとって、とても救いになった

沖縄には2泊3日の空白の時間をごしたが、
あすへの希望が持てる逃避行になった様にえた。

そしてこの彼女とは、おかしな帰省になった。

来た時は一緒の飛行機で帰りは別々の飛行機に乗るなんて、
思ってもいないストーリーである。

そして朝いちの飛行機は並んで待機していた。
右が大阪、左が東京、そして二人は別々の飛行機に乗りんだ。
何という偶然だろうか、座った席もお互いが見える場所に私はいた。
彼女
が先のフライト、見送る形となった私は手をり、
心の中で(ごめんな~と)った。

れる事10分、私のも恵子さんが待つ東京へ飛び立った。
何もる事がなかった沖縄への旅が変わった結末となって終わった。


羽田
空港で私は恵子さんと久しぶりに再会した。
この人との再会がこれから大きく運命を変えて行ったのかも知れません。

恵子さんが住む国立市へ二人で行く道中、色んな事を話した。
何を話したかはあまりえてはいないが心が落ち着き、
らいだ気分になった事はえている。
女性
と同伴した沖縄のおりはこれっぽっちもなかったが、
二人で立寄った立川で見た怪奇夕陽が私は忘れられなかった。


それは何ともがない夕陽であった。
恵子さんも今までこんな夕景、見た事もないとびっくりした。

夕陽
橙色赤色と決まっている。
しかしこの夕陽一面が真っ黄色にわれ何かがれて来そうな光をしていた。
何と怪奇現象であろう~
恵子さんがその時『何か、を感じる』と云われ、
ちょっと不気味だった。
その夜、高橋家で一宿一飯恩義を受けたが、中々寝つかれぬ夜になった。

明朝、恵子さんと羽田空港で別れた時、何かが起こりそうな予感を私も感じた。

しかし私が奈良にいた時、行く前にめていた私の車(カマロ)はなかった。
そして私のすし店もなくなっていた。
店の権利も車も妻は売却しまった。



予感って!」こんな予感だったん?
そして先に帰った女性にもちゃんと処罰されていた。

どんな処罰だったのか私は聞く事も出来なかったがに包まれ、
彼女の顔も見る事はできなかった。

5日間の避行、その答えはこれだったんですかね、
自業自得仕方ないでしょう。

これで私は妻への信頼もてをってしまった。
失っただけではない、そこで妻は決断をその時していたのである。

にこれが私を不幸のどんる、ろしい女の執念となって行った。


しかしあの怪奇現象しを感じさせる事が起り始めた。

子供
の大動脈にみついていたガン細胞が少しではあるが
れかけている様子がレントゲンにしだされた。

今までビクリとも動かなかったあの物体何故か動いたのである。

主治医はこの朗報を私ら夫婦に喜んでえに来た。

今なら手術が出来るかも知れない、
成功する確率は五分五分、
でも今をせば再びみつく可能性も・・・。


『 どうしますか? 』 
究極選択がされた。

確率
は半分、でも手術しなければ、
いずれれる。

でもそれまでは子供一緒におれる。
どうすればいいんだ、五分しかない確率にける選択には勇気がいった。

天野
くん、あなたに運命を掛けるしかなかった。

恵子さんもを感じたし、
きっと何かが起こる事を私は決断した。

病棟
を今も元気に子供
これが見納めにならない事だけを私はった。

手術の朝がれた、子供は元気な笑顔病棟を出て行った。
私は、心の中で必ずまた逢おうよと約束し送った。

ぁい・ぁい手術でした。

14、5時間はかかったでしょうか~

待合室
、おいが言葉をわす事もできない
緊迫した時間を私は味わった。

そしてこの長い手術に子供はよくえ、
また二人のってくれたのです。

奇跡であった。手術は大成功した。

集中治療室
に入って子供を見た時、
安堵で全身の力がけてしまった。

主治医が
採取したガン細胞を見ますか~』
っと、私に云った。

我が子を半年間もしめ、
夫婦の生活をズタズタにしたヤツ、
一見せずにはおれなかった。

気持ち悪かったが私はそれを見た、
でも「じゃ~コリャー」
った。

赤い糸と黒い糸がみ合った
糸屑だけが皿の中に入っていた。

ガン細胞って、もっとドロドロした物体だと
私は思っていただけにけしてしまったのである。

しかしこんなゴミの様なに私はえ、
泣かされていたのかと思うと立ち
その物体を私は右手で強くしていた。

これでやっと私は恐怖日々から釈放されたのである。

さぁーこれから私は、

怖ろしい女の執念を味わって行く・・・

つづく