死の告知

あの寛一お宮の出来事があったのに私の優柔不断な行動は治らない。
治らないどころか、逆に増して行った。
これは離婚の後遺症かも知れない。


『彼女は嫁でもないし、束縛もされたくない』と考えだし、
その後も"すずめ"と付き合いを続けた

私はお金儲けさえしてればいいんだと思い始め
"すずめ"とは隠れて逢った。

"すずめ"はその時20才、私は33才、歳の差はたしかにあったが、
二十歳なのにこの娘はホントに商売向きのキァラだった。
それを見込んだ私は自宅まで出向き、親を口説いてヘッドハンターした。

私はいずれこの娘と一緒になって商売でもしようと考えていたのかも分らない。
相性診断や手相まで見てもらったりした。
そして仕事帰りのある夜、二人で大阪まで遊びに行こうしたが
すずめが悪酔したので急きょホテルで休憩することになった。

ホテルの現行犯歴2回あるので慎重に慎重を重ねたが、
寝静まった頃、枕元の電話が鳴った。

フロントに居たやくざ風のオッサンからであった。
そのおっさんが慌てふためいての声に私も驚かされた。

『お宅の奥さんらしい人が来て、部屋を教えよ!』
と息まいてます。
『なんとかしてくださいよ!』
とその怖い顔したオッサンが云うのです。

『そんなの、私にどないできんねん!』

『プライベートルームなんだから、そっちでなんとかせぇやー』

と云ったものの心は動揺した。

オッサンは渋々電話を切ったが私も気が気でなかった。
するとまた電話がなった・・・

今度のオッサンの声はちょっと偉そうにこう云った。

『あなたの車を乗って帰った』
『代わりに軽トラを表に置いてある』
『その上、入り口のゲートを車で突破して行った』
『あんな怖い人、見たことない』
『気をつけて帰って下さい』

と嫌味たっぷり云われた。

あんなやくざまがいのオッサンが云ったのも意外だった。

ここまで来たらもう開き直るしか私にはなかった。
帰ってからの事はなる様にしかならないと思い寝る事にしたが、
またまた電話が鳴った。

オッサンも疲れ果てたのか、邪魔くさかったのか、
今度は彼女が外線からかけてきた。
そして電話を繋げないなら警察に云うと脅したらしく電話を切り替えてしまった。

電話の向うはオッサンから彼女に変わっていた。
そして最初の一言がこうだった。
『となりに居るオンナ出し・・・』
『もう誰か分ってるから、早く出しな・・・』


そう云われても出すわけにはいかない。
だから私はこう云った。
『誰も居ない、俺一人や!』
そんなウソ、通用することないのに私もよく云えたもんだ!

すかさず彼女も
『なんでそんな処に一人やねん、アホいいな!』
『早よ!出し…』
と罵声を浴びせられた。

こうなったらウソを押し通さなければならない。
何と思われ様が
『俺は一人や、一人になりたかったんや…』
とウソを云い通した。

押し問答が続き彼女も観念したのか?
『 わかった!覚えとけや…!』
と云って電話を切った。

その捨てゼリフが少し気になった。

早朝チェックアウトの時、オッサンが
『 外で待ってるかも知れんから気をつけや』
と云われてビクつきながら軽トラまで行った。

ゲートの竹竿は折れて曲がっていた。

すずめを家まで送り届けたが、
私は家に帰る勇気はなく仕事場へ直行した。

そして気になっていたあの捨てセリフが嘘でない事を知った。

彼女は大変な事をしでかした。
真夜中の2時すぎ私と押し問答をした後、
すずめの実家に電話をかけたみたいである。
本人の所在を確認するや否や彼女は母親に
『お宅の娘は、泥棒ネコか!』

『今、うちの人と○○ホテルで寝てる!』

『 どないしてくれるねん!』

と怒鳴り捲った様だった。
真夜中の2時、非常識にも程があった。

すずめには友人宅で泊まったと私はクギを指していたので
母親にもウソをつき通した。
でも仕事は辞めさせられ、私と逢う事も止められた。

やはりこれが彼女の作戦だったのかもね~

その後すずめにはもう逢う事はできなくなった。

もう私は彼女から逃げれないかも知れないとその時思った。

そんな事があって4,5ヶ月たったある日、
彼女が私にこんな報告をした。

妊娠を告げたのである。

それも妊娠5か月目である。

当初、二人で子供は作らないと取決めをしていた。

なのに何故5か月まで分らなかったか疑問だった。

寛一お宮のあった日、彼女にせがまれ抱いた。

きっとその時、宿した子供だろうと推察した。

そして今度の報告は入籍を勝手に済ませてきた報告だった。
だからいつ入籍日になっていたのかは知らない。

これが女の執念だったのかと思ったがもう後の祭りだった。

翌年の3月23日にその長男が産れた。
そして彼女の連れ子も養子縁組し長男3人長女2人の父親になった。

入籍した事で彼女の監視も目も少しは緩くなったのは
せめてもの救いだったかも知れません。

そうこうしていた頃、私に近寄って来た女性がいたが
彼女も気に留める様子もなく以前とは違った。

何度か誘われて飲みに行っても
それほど惹かれる女性ではなかった。

私も久しぶりの実子に子煩悩ぶりを発揮していた。
平和な家庭を久々に体験していた時だった。

そして3年が経過した時、
8年間闘病生活を送っていた育ての母が他界した。
長い長い看病の末、母は父の誕生日3月15日に逝ってしまった。
私もこれでやっと病院とご縁が切れた。

子供も満3歳になり可愛いさかりだった。
しかしその子に異変が起こった。

大型連中になる前の4月28日、橿原医大へ緊急入院した。
病院とやっと縁が切れたのも束の間、
今度は我が息子が入院する羽目になった。

その病名も難しい名前の神経芽細胞種、
俗に云う、小児がんであった。

あの気丈な嫁も私の横で泣き崩れ、私も頭が真白になった。
私達夫婦はここで死の告知を受けた。

余命3ヶ月、その言葉が頭から離れなかった。

自分が受ける以上にそれは重いものの様に感じた。

私は病院のそばの書店へ走り込み、本を買いあさった。

しかしどれもこれも良い説明がなく不安だけがつのった。

母親の時とはまた違った恐怖に私は包まれた。

つづく