異国の地(セイ・シェル共和国)

 
長~い、長い、シンガポールのトランジットは終わり

疲れ果てた私を乗せたエア・セイシェル機は母国に向けて出発した。

そしてこの機に搭乗した私は、型の古いジェット機に驚かされた。

周りの壁はツギハギだらけだし、穴の空いた箇所もあり少し恐ろしさも感じた。

その上、機内の掃除に来ていたオバさんが黒人でごっつい人ばかりだったのにもびっくりした。

ここでまたオカシな事が起こった。

飛行機が動き出しているのにそのオバさん達が降りない、

そして飛行機は飛び立ってしまった。

いったいどうなっているのだろうとひとり考えた。

私はたぶん一緒にセイシェルに帰るのだろうと察していたのだが・・・

しかしである、このオバさん達、実はこの機のスチワーデスだったのです。

そんなバカなぁと云いたくなった。

スチワーデスよりキャデーさんの方がお似合いだった。

前機のシンガポール・エアーラインはスタイルの良い美女揃い。

それに比べたらあまりにも違いすぎに楽しみさえなくなってしまった。

これから6時間の旅はきっと寝るしかない様に思えた。

シンガポールとセイシェルの時差は約4時間、

何時間飛んでも暗闇ばかりで中々朝は訪れなかった。

そして遂に暗闇の中、

飛行機は着陸体勢に入ろうとしていた。

朝の5時だが陽はまだ明けて呉れようとしない。

どんな処に着くのかはこの暗闇では全然分らない。

初めて踏み入る異国の地が上空からは何一つ確認する事ができず、

私の不安は積るばかりだった。

41年目にして初めて海外の地に来た私に、

前途多難を感じさせる幕開けを予言している様だった。


窓越しに何かを見つけようと必死に下を探すのだが、

かすかな灯りが所々にあるぐらいしか探す事は出来ず、

未知の世界がより大きなものになって私を包んだ。


この旅は海外旅行でもなければ逃避行でもない、

如いて云うなら島流しかも~

前世、私は本当に極悪人だったのかも知れません。

今世でもやはり多くの人や女性に迷惑を掛け、何度も同じ事を繰返した。

今回は、その報いだったのかも知れません。

そして今、私を乗せた飛行機はやっと目的地へ到着しようとしていた。

『 Japanese RestaurantsKyoto 』

それが今回、私が契約した外国の仕事先である。


私の職業は料理人。

今回、奇遇にもこんな仕事が急に舞い込んだ。


しかも国名も場所さえ分らない小さな国だった、

もちろんガイドブックなど何処を探してもなかった。


治安が良いのやら悪いのやら国勢すら分らない状態。

その上この契約は2年間だったし、途中の帰国は許されなかった。


そんな過酷な条件ではあったが私はすぐに行く決意をした。

今まで生きてきた41年間の精算をきっとしたかったのだろう~

私の過去を知らない、見知らぬ地で全てを洗い落そうと思っていたのではないか。

人は、海外で暮らす喜びを羨ましく思うかも知れないが

私にはそんな嬉さなどはなく、

ただ自分に強くなろうと再起を賭ける最後の挑戦のように思えた。


カッコイイ話しだが、そう旨くいくかなぁ~と私も半信半疑だった!?

私は他人様が経験出来ない程のスゴイ過去を持ち、

色んな目に遭遇して生きて来た事を思えば、

ちょっとだけ頑張れと自分で応援してやりたかった。


自分が蒔いた種も多々あったが、

運命や宿命とも取れるものも随分あり苦労したのも事実だった。

それは良い経験をしたと云うのには忍びない位のものもあり、

今回一つの大きな転機として離国を決意したと思えた。

これまでの生きざまは好き気まま、好き放題に生きて来た、

その報いだと云われればきっとそうなるだろう…

しかしそんな事の繰り返しで私はいつの間にか心の弱い人間になってしまっていた。

そんな自分を何とか変えたくてこんな処までやって来た。

過ぎた過去をいつまでも悔やむより残された人生を生き抜く現実を私は選択した。

そして今回、強く生きて行こうと心定めし、日本を後にしての旅立ちとなった。

場所はインド洋に浮かぶ小さな国、セイ・シェル共和国。

人口6万人、当時世界で2番目に小さな国だった。(因みに1番はモナコ)

アフリカの東岸ケニヤ(ナイロビ)から2500キロ離れた諸島である。

貴方だったらどうします? そんな所に行きますか? 


私も空港へ行く道中、心の中でずいぶん格闘をしていました。

心は決めたものの内心はまだ日本に居たかったのではないかなぁ・・・と思った。

でも日本を出る時、すずめから貰った手紙を機内で何度も読み、

強くなって帰って来て~)あの言葉が私の背中を押した様だ。

そして長~い、長い旅は終わった。

時は1992年、7月15日の朝だった。

そして夜明けのセイ・シェルが私を迎えて呉れた。

2年間共にする国が今、私の目前にはっきりと見え、足は大地を踏みしめて居た。

さあ~これから未知の外国生活が始まるのだと自分に言い聞かせ、

南国の島セイ・シェルの空気を胸一杯、吸い込んだ。

シンガポールのトランジットを含め本当に長い22時間、ひとり旅でした。

そしてこれから2年間共にする処に私は今、立っている!

まわりを見わたしても色の黒い外人ばかり、

日本人を見る事もできない場所に来てしまった。

この地で初めて見た日本人が雇用先レストラン京都の経営者であった。

Mr.Monzen 門前 勝が

空港で待ってくれていたので一安心した。

出発時の伊丹空港やシンガポール空港とは比べものにならないぐらいの簡素な空港。

国際空港だなんて名ばかり、似ても似つかぬローカルな空港、

まるで大阪の八尾空港みたいな処でした。

社長は車でまだ眠むっている静かな街を案内してくれ、レストランに着いた時には

もうすっかり朝になっていました。

2年間、寝起きする場所として小さなコテージが私に与えられた。

コテージと云っても貧相なヤシの葉を葺いた、藁葺き小屋で中には何もなかった。

丸いテーブルとベットが片隅にあっただけだったが、

私は荷物を置くなり一眠りしてしまった。

旅の緊張と時差も手伝ってか、何の抵抗もなくすぐ深い眠りについてしまった。

今私が見ている夢はきっとまだ日本に居る夢に違いない。

目を覚まして、初めてここが外国の地だと確信できたのではないだろうか。

大きな敷地の中にレストランとコテージがあり、

周りにはヤシの木やマンゴ、パパイヤ、アボカド、ライム

と云った木が生い茂り、正に南国そのものであった。

そこで店のママさんを紹介されたが、その人は社長の愛人でした。


そんな事など知らなかった私はまぁー 「 奥さん 」を 連発してしまった。

何回云ったか忘れましたが、

その愛人が段々血相を変え、『私、奥さんと違います!』と顔を紅潮させた。

の時は意味不明だったが、この愛人が最初に見せたスゴい気性だった。

このスゴい、カウンターパンチを私は来るなり一発食らう事になった。

それから私はその愛人を『MaMa』と呼ぶようにした。

女将さんでもよかったのですが、

その呼び名はこの愛人には勿体ない様に思えた。 

長い自己紹介の後、厨房に案内された私は一瞬ぞっとした。

日本の調理場とは遥かにかけ離れた厨房に私は戸惑った。

道具さえ揃って居ないのにも困ったものである。

2年間、こんな処で仕事するのかと思うとあまりにも惨めに思えたが

もう引き返すわけにも行かず心の切替えしかなかった。

しかし出稼ぎに来たのが主たる目的ではなかっただけに

幾分かは救いにはなったが大変な事だけは事実だった。

ましてや私はプロの料理人!

どんな条件でも物を造り提供する任務は守らなければならず

それを考えると少し気が滅入った。

そしてあのママさんです、

ホンマ一癖も二癖もありそうな嫌な予感を感じた。

色んなタイプの女性を知って居る私だが、

ちょっと重い荷物の様に受止めて居たに違いない。

しかし、社長の内心はすぐに読み取る事は出来なかった…。

そしてその日の夕方から店は臨時開店となった。


今日一日はゆっくりできると思っていたのに、

あの『奥さん』を連発したのが効いたのか?

早速ママの攻撃を食らうハメになった。

これはボディーブローでしょうか、それともジャブなのか、

どっちに転んでも厄介な女性であった。

そして日にちは経過して行ったが、

頭の中はたえず日本の事ばかりを思い、すずめの事しか考えなかった。

日本から6千キロも離れている実感はなく、

社長の事務所から送受信するFAXだけを楽しみに日々送った。

すずめとの心の繋がりはこれしかないと私は錯覚していたのかも知れない。

その為か中々前向きには歩けず、たえず後ろを振り返る日々が続いた。

日付や曜日の感覚なく、一日がとても長く日にちだけがどんどん過ぎて行った。

ここでの労働時間は5時間と非常に短く、あとの時間をもてあそんだ。

そんな生活など経験のない私は体の置き場所さえ困る毎日でした。

刑務所やブタ箱よりましやと思う心で行くしかない様にも思えた

気が狂いそうになる心を抑えるのにも苦労した。

 一日がとても長く感じた時でした。

そして開き直る心が生まれて来たのが2、3ヶ月を経過した頃からだった。

今まで日本から多くの板前がここセイ・シェルにやって来たが、

その大半がこの期間内に辞めて行った。

でも私は今回、この一回目の大きな危機は乗り越えた様である。

身動き取れない退屈な日々にも、ずいぶん体は順応してきた。

心も徐々にだが自分でコントロールできるまでになった。

その為、退屈な夜には日本の知人宛にひたすら手紙を書き、心を静める事にした。

休日には一人ビーチまで出かけ半日海を眺め、物思いに更ける時間に当てるなど

心に余裕を持つ事を覚え始めた。

日本が位置する東の地平線を眺めていると

日本に居た頃の事が様々な形で脳裏に浮かび、恥ずかしくなる思いを素直に受止めた。

もう酒に逃げる事もなく、自分を曝け出し素直に非を認める事も出来る様になった。

それは
ここ南国の島が持つ特有の雰囲気にあったのかも知れない。

そして毎朝、私は歩いた。

4キロの道のりを毎日、街まで歩いた。

朝から夕方まで店に居たのでは退屈で息が詰まりそうになるからだ。

でも今流行りのウオーキングではない、ダイエットでもない!

ただ車がないから歩いただけだった。

バスはあるにはあるが何時来るか分からない上、いっぱいなら素通りした。

その上私には、乗り方も降り方も料金すら払えない未知の乗物であった。

だから歩いた、ストレスを発散させる為にも毎日街まで歩いた!

そして
朝8時から6時間も街で時間を潰す、日本では考えられない事です。

ここセイ・シェルに在住する日本人の数は私を含め全部で8人、

社長とママを除けば5人しか居らずその中の3人が毎朝この街にやって来る。

皆、私と同じ心境だったのかも知れない~?

そして毎日、日本人とカフェテラスで逢っては雑談に花を咲かした。

それがここで唯一、心の休まるひとときだった。

そして街をぶらつき、みやげもの売場を見たり、ショップを覗いたりして時間を潰した。

そしていつも時計台の下でタバコを吹かしては行き交う人達を眺めた。

別に何んの変化もない小さな街。

知る人も居ない所って、時としては良いかも知れないが淋しいものだった。

そして言葉の障害にも苦しむ毎日でした。

英語が喋れていたらもっと違った生活が

送れていたかも知れないと己の教養の無さを私は嘆いた!

そうこうして5ヶ月が過ぎた頃には、

もう心は外国人になりつつ、此処の生活にも馴染みだしてきた。

日本を偲うホームシックも開き直る心からさほど感じなくなってきており、

2年をクリアする事だけを考えて生きていた。

そんなある日です、

暮れも押し迫りもうすぐ新年を迎えようとしていた時、事件が起こった。

それは、心の支えであるすずめからの一本の電話だった。

彼女は泣いて私に謝り、自分の心変わりを伝えてきた。

とても悲しい電話であった。

しかし、その時の私はさほどの動揺もなく、

逆に泣いて詫びるすずめの心境を汲んでいた。

出発に際してある程度の覚悟は出来ていたからかも知れません。

一緒にいたんだったら彼女の心を掴み、離す事はなかったが

これだけ遠くに離れてしまえば、それは到底無理な事だった。

手紙やFaxだけで掴み止めるなど至難の業でした。

女心は傍で優しくしてくれる人が居れば変わる事ぐらい、

今までの経験から私は百も承知していた。

その上、すずめには行く前から彼氏はいた。

でも彼とは別れたい、離れたいと思っていたのも事実だった。

でも彼氏に見つかり戻ってくれと悲願されたのでしょうね、

あの娘の性格からしてこれはもう仕方のない事だったのかも知れません。

決して彼女を責めるわけにはいかなかった。

ただ私の心の片隅には今回は違うんだ、

すずめだけは違うんだと思っていたのかも知れませんね? 

そう信じていたかったのかも分りません。

こちらへ来て3ヶ月が経過した頃、一度だけすずめがこんな事を云った。

私、日本で一人居るの辛いからそっちへ行こうかなぁー!

でもあの時、私はすずめを止めた。

本当はすぐにでも逢いたかったけど、

あのママがいる以上、此処には呼べないなぁーと思い我慢した。

その時、私はすずめにこう云った。

ここはイモリが天井から糞をするし、蟻はベットを這い回る、

おまけにシャワー室ではムカデとご対面だよーと伝えたら、

それからは来るとは云わなくなった!

でもそれで良かった、すべて事実であったが来ない様にそう云った。

もしあの時、来てと呼んだらすずめはきっと来ていたでしょうね、

その時、彼氏と何かがあったのかも知れません。

でももし来ていたら、

それで契約は終わり二人揃ってたぶん帰国となったでしょう~ね!

ここのママの性格からしてきっとそうなったと思う。

(人の不幸は蜜の味)

が大好きなあのママの性格からして上手く行く訳がない。

そんな事が暮れの押迫った時にあり、

もう日本に帰る希望さえ無くしそうに思えたが、

その時の私には大きく心の切替ができるまでなって居た。

あの離婚の苦しかった心境を考えれば、

これぐらいの事、なんでもない様に感じられた。

(だったらのすずめこと、大して愛していなかったん)

と聞きたくなったが、

すずめは私に勇気と希望を与えてくれた。

そして強く生きる事を教えてくれた事の方が感謝に値すると思えた。

だから彼女にも幸せになって貰える様、願うのが私の愛の証だった。

そんな心境に私はなっていた。

そして年も明け新しい年1993年が私を迎えてくれた。

やっと5ヶ月が経過した。

これで日本には何一つ未練もなくなり、

期間内ここで精一杯生きて行く事に私の心は決まった。

年頭に当り色々心定めをしたが、その中にすずめの事はもうなかった。

1993年、この年が良き年になってくれる事だけを私は祈った。













異国の地でも波瀾万丈な人生は続いた・・・

つづく