試練の始まり

この始まりは母親の病気から
始まった様に私は記憶している。

その事で私は色んな事を知る事になった。

私を取り巻く環境下は大きく変化し、
恐ろしい出来事が次々と私を襲った。

本来なら自業自得だと云いたい処ですが
ボンボン(バカボン)で育った小生には
試練としか云いようがない。

真っ逆さまに堕落の底へと落ちて行く。

それは運命のいたずらの様に思えてほかならない。


出生の秘密

小生は19歳から親の同意の元、
最初の嫁と同棲生活を始めた。

一人っ子で育ったせいなのか、
とても淋しがりやだった
と云えば聞えは良いが
ただの助べえだったのかも知れない。

板場の修業時代から
その片鱗はすこし見せていた。

女癖が悪いと云うよりも
惚れ易い性格の持ち主と云った方がいい。

2年間の同棲生活中、
何度も寝返りをしたのだろう〜
嫁はご懐妊した。

そして臨月の3ヶ月前に
実家へ戻り入籍を済ませた。
これが最初の結婚でした。

結婚式は天理教の教会で挙げ、
料理は自分で造った。

それが21歳、とても早い結婚でした。

翌年の6月6日、
寝返りを討った子が
最初の長男として生まれ、
その年の10月25日、
嫁とふたり五坪の寿司屋を開業した。
これが商売のスタートでした。

その2年後、二軒目の店を出店するまでになり、
店は順調に繁栄していた。
子供にも恵まれ、3年後には長女も授かり
順風満帆な生活を送っていた様に思う。

そして5年が経過した頃だったろう?

ここから私の運命が逆転し試練が始まったのです。

『 くも膜下出血 』これが母親の病名でした。
ゴルフ場にいた私は場内放送で呼び出され、
慌てて病院へ駆けつけ、その病名を知った。

そしてその後、私は出生の秘密を知る事になった。

27年目にして初めて知ったその秘密とは・・・・、
今まで疑いもしなかった親子のつながり、
これが根底から崩れ落ちる瞬間だった。

私のお喋り友人がその事実を告げてしまった。
お節介なその一言がそれからの私の人生を
大きく変える結果となった。

27年の歩みを打ち消される思いが
するほどの強い衝撃でした。

こんな事は知りたくもなかったし、
一生わからなくてもよい事実でした。

産みの親が危篤の母ではなく、
育ててくれた母だった。

そして産みの親があの四国のおばさんだった。

ずっとおばさんと思っていた人が、
実は母親だって信じられなかった。

27年間、私をやさしく育ててくれた人は、
そのおばさんの姉でした。

でも今、その人は病の床で生死の狭間をさまよっている。
この事実も知らずに安らかに眠っている。

こんな時に知らされてどうすればいいんだと私は悩んだ。

嘘であってほしいと願う気持ちも日が経つにつれ、
だんだん現実味をおびだし、
いろいろな形で明らかになってきた。

今まで知らなかった事までが鵜水のように現れてきた。

戸籍上はなんの疑いもない実子、
血液型だって母がA型、父はB型と聞かされ
私はAB型だから何んの問題もない。
だからどうして?
なんでこんな事に〜
なんでそれが俺なの?
そんな自問自答を繰り返した。

そしてその時のトリックまでがあからさまになった。
世間を欺き、戸籍まで偽り、実子とした事実が分かった。

しかし私は一度だけ叔母ちゃんをお母さんと感じた事があった。
それは幼い頃、一瞬ではあったが、
私の小さな脳裏を過ぎった。

もう遠い遠い昔の話しである。

だからこれは宿命なんだと思う。

 親同士のいきさつなど知らないが、
私の人生はこの事によって大きく変る結果になった。
私は子養子になるべくして産まれてきたのである。

 1950年、戦争も終わり世間が落ち着いて来た頃、
ある一家にこんな事が起こった。

それは小さな街の資産家の家に子供が居なかった事から始まった。

後継がいなかったこの家は、子供が欲しくて仕方なかった。
その星の下に私は舞い降りた。

その家が天野家であった。

 いとこ結婚した両親には10年以上も子供が出来なかった。

そんな折、四国にいる母の妹が
3人目の子供を宿した事からこの事件は起こる。
 (その妹が四国の叔母ちゃんである。)

妊娠後体調を壊した妹は、
姉である母の処に相談を持ちかけた。

それも私を堕ろす相談に来たのである。

長女・長男も居た妹には、
危険をおしてまで私を産む必要も
なかったのかも〜知れません。

 しかし天野家にとっては、
これはもう羨ましい話しである。

母は妹に悲願し私を産んでくれる様、
説得したからこの私が産れてきた。

天野家へ嫁いで来た母にとって子供は必須だった。
肩身の狭い想いをする姉の心情を察してか、
妹は危険を承知で私を産む決断をした様です。

それにはきっと二人共が遠い北海道から
本土へ嫁いで来た寂しさと
強い姉妹愛があったからでしょうね・・・
と私は思えた。

ここまでだったらこれは事件でもなく、
美しい話しで終わったが‥‥‥

ここからが金持ちだからできるワザで
この事件の幕があがった。

それは私を養子ではなく実子にすべく、
戸籍を偽造したのである

これは正に犯罪行為である。

昔だからできた事でしょう〜

でもこれは私の行く末を考えたからかも知れません。

しかしカラクリは簡単だった。

妹を近くにあった天野の借家に住まわせ、
日々、病院通いと静養に努めさせる一方
母はお腹に座布団を巻いて妊婦役に変身した。

座布団の枚数も日を追うことに増えていき、
近所には子供が出来た事を嬉しげに伝えた。

お膳立てもすべて整い、妹に陣痛が起こると
産婆さん宅へ秘かに送りこんだ。

その一方、
母は大げさに天野家から
人力車に乗って助産院まで行く。

産婆さんまで巻き込んでの大芝居であった。

それによって私の籍は実子となり、
27歳まで知る余地もなかった。


しかしこの事実を知らなかったのは私だけだった。
周りの者ほとんどが知って居たし、もちろん妻も知っていた。
それが特につらく感じた。

お喋り友人が告げたのもある意味、
仕方なかった事かも知れません。

母が逝く前に知った方が良いと考えたのでしょう。

しかし危篤の母に今私は何を云えばいいのか
それはあまりにも酷すぎた。

もっと早くに知って居たら
もっと違った心で母に接していたし
感謝していたのかも知れない。

一人っ子で大事に育てられ、
両親のあたたかい愛情をいっぱいもらい
生きて来た事がそんな過去の中にあったのかと思うと、
とても複雑な心境になった。

そして四国の叔母さんが当時の話をしてくれ、

『 隠していて、ごめん』
と私に謝った。

その時の叔母ちゃんの目には
涙がいっぱい溜まっていた。

それは叔母ちゃんが私に見せた、
初めての涙だった。

当時のいきさつと産み捨てて帰る
辛かった胸の内を聞かされた時、
私の心は少し癒された様に思えた。

そしておばちゃんはもう一言付け加えた!

『 姉ちゃん夫婦はネ!

お前が居た事でどれだけ救いになったか? 』

『 お前を生き甲斐に生活していたんだよ〜』


『 もしお前が居なかったら姉ちゃん夫婦は

なんの喜びも楽しみもない、淋しい生活を送っていたに違いない。』

お前には悪いが産んで良かった。

お前を姉ちゃんの処へあげてほんまに良かったと云った。

そんなおばちゃんの本心を聞かされて
私は違った自分の存在感を知ったのである。

しかし今でも私はおばちゃんを母とは呼べず
『 おばちゃん 』 である。

別に深い意味はない。

事実を知った今も私は育てて呉れた人が母である事に変りがない。


そしてその母が意識を取り戻し2ヶ月後に生還できた。
正に奇跡です、神は確かに居たのかも〜。

もう二度と母と呼べないと思っていたが、、
神様は話せる機会を作ってくれた。

父親には悪かったが、母ほどのインパクトはなく
これと云って云えなかった。

これで終わりならまだ救われたが、
これから色んな事に私は遭遇し生きて行った。


母が生還し、看病でいた叔母さんが
四国に帰える時、私にこんな事を云った。

『優子(長女)ちゃんちょっと変じゃない?』

『もうすぐ3歳になるのにまだ喋れない?』

『それにしぐさも普通の娘じゃないと思う』


そう言い残し帰った。

確かに普通の娘さんに比べたら成長が劣った。
でも若かった私達夫婦は気付かなかった。

そして長女に異変が起きた。


癲癇(テンカン)のような発作が
しばしば起こり始めた。


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