新しい年1993年!
 
愛の女神(すずめ)と別れ私は新しい年を迎えた。
外国の正月は日本の新年とは一味二味も違う空気を感じた。
あちこちで爆竹の音が鳴りき、若者たちが車で爆走していた。
家族で教会へビザをげに行く人達も沢山見かけた。
日本で初詣なんでしょうかネ! 
ところわっても新年はやはり皆んながめでたいのでしょう〜
私は新年に必ず初ぎをしようと前々から決めていた。

ここセイ・シェルの海は本当に美しい。
来た当初はこんな綺麗な海があるんだと感激した。
沖縄の海よりまだ美しかった。
星空
もそうだった、
仕事が終り芝生がり夜空ると
それはもうプラネタリュームの中にった錯覚になってしまう、
星が手のまで降りてきていた、素晴しいことでしょう。

しかし5ヶ月を過ぎた今、当初の感激はもうない。
ただの海とただの星に変わっていた。
しかしいお正月はわった事がないので日本で出来ない事をしたかった。
そして生まれて初めて初泳ぎのお正月をした。

日本に帰れない些細抵抗とでも云おうか?
その日は現地の子供をいっぱい集め
贅沢なバーベキューパーティーをし愉快に遊びしっかり泳いだ。
そんなことしかここではできなかった。

そして又、普段退屈日々れた。
退屈というのは一体、何と云ったらいいのでしょうか、
日々に変化がないとでもおうか、
なんの楽しみを見つける事もできず、時間
だけをした。

本職
の仕事にいてもそうだ、食材のなさで日本食もどきにジレンマを感じた。
テレビもラジオも時間制限で昼など放映放送もいていない。
していたでクレオール語、フランス語、英語、そんなのかるもない。
もちろん部屋にはテレビもラジオもなかった。

情報
ってこない世界、これがより退屈をすのかも分かりません。

洗濯ものだって大変でした。
毎日、洗濯機をくがえずママの物がりっぱなし、
っていても中々出してくれない。

やっといている時、使おうとしたら
今度は『あまのさん〜 もう終わる?』かされる。

ほんとに意地くそが悪いママである。
だからたまに洗濯機の中にゴキブリを入れておいてやった。
でもれっぱなしは帰るまでる事はなかった。

暑い国、れ物はすぐまる、
予備は沢山日本から女神が送っていたがに底をく。
着替
えがくなると心までしく、めになってしまうものです。

散髪
もそうでした。
毎日、街まで行っているのに散髪屋にはどうしてもれなかった。
小屋
みたいな処で椅子だけを店の前に置き髪をっている。
こんな光景をみたら行く気にはなれず、シャワー室でカットした
ホントに時代が20年以上前にタイムスリップした感でした。

でわレストランでの仕事ぶりを少し紹介する事にします。
日本レストランと云っても料理人は私一人、
カウンター8席とテーブル5そして座敷が1室です。

ホールはママと現地の黒い女性が二人、社長は店には出て来ない。
社長
に日本船のエイジェントの仕事をしており、
店は実質上ママさんがっていた。
そのでしょうね、べっぴんのウエイトレスはいませんでした。

一度だけ社長ウエイトレスを連れて来たことがあった。
近くに住むセルシワ(通称現地人のことです)で中々の美人でした。

私も楽しみができたと喜んだのも束の間社長夫婦に喧嘩が絶えなくなり
あっという間にこの美人のセルシワはいなくなった。

だからウエイトレスはママみのブスしかいません。
退屈
原因はひょっとしたらこれらにもあるのかも知れませんね!

では本題に戻ります。
メ二ューは前菜、造り、焼物、天麩羅酢物
そしてメインディシュがすき焼きと決まっていました。

デザートはインスタントコーヒーかバニラアイス、これは私が帰るまでわる事はなかった。

そして丼物、豚カツ、焼き鳥、おにぎり、お茶漬けと日々定番の同じメニューばかりです。

すしネタや造りは現地でれた魚を使い、米は冷凍カリフォルニャ米や豪州米です。
すし舎利は注文が入り次第つくる為、すしがればバタバタしました。
せ一人仕事でしかった。

その中で一番ったのが天麩羅でした。
現地には薄力粉(天ぷら粉)はなく、
パンで使う強力粉しか調達できなかった。

強力粉では天ぷらは上手らず、
コーンスターチをぜたりイスハタを入れたりして、
苦労するも日本のにはならなかった

に知った事ですが、
強力粉にパパイアの汁を入れれば、薄力粉に変身するのに」
と知人から教わったがそれはの祭り、
誠にしい事をしました。

食材の現地調達にも随分苦労していました。
特にすき焼きに入れる白菜にはホントこずった。
あちこちの民家
にまで調達しにいった。
Do you have aチャイニーズ・キャベツ”
下手な英語を使い一軒一軒まわった。

もともと白菜は寒い時期の物、
暑い処では葉は巻かず開きぱなっしで薹が立ち
硬かったがすき焼きには必須だった。


それよりも開店当初の15年前はもっと大変だった。
ニワトリの卵を求め全員が探し歩いたそうだ。
今では卵は毎日配達してくれる様になり、
ここセイ・シェルも幾分かは発展したのかも知れません。

それをえればまだ昔に来なくてよかったかと思った。

食材も苦労しましたが、もっと厄介なのが停電でした。
行った当初、停電が頻繁にありました。
2・3回はあった。
多い時には3日連続で起こりもううんざりした。
それも必ずといっていいほど営業中
事前の報告もないので
ぼやくしかなかった。


落雷や事故それならまだ納得もしたが、
原油不足だから火力タービンをめるんだと
社長から聞かされた時には
びっくりした。

電気が消えた時にはもう大変でした。
暗闇の中、ろうそくの火で仕事しなければならず
天麩羅なんか揚げている時など悲惨でした!

冷蔵庫も切れ外気の暑い空気が入るので開閉もママならなかった。
しかしお暗い方を喜んでいました。

だからたまに電気を消してと云うバカな客がいます、困ったもんです。
そんな時期去年はずいぶんありました。

そしてブスのウエイトレスらにも往生しました。
英語をれない私をバカにしよる。
ブスのウエイトレスでもほとんどのセルシワは英語を話せる。
そして英語はイージー(やさしい)だと豪語する、
Wh
、なぜあなたはらないんだと挑発してくる。
あまり腹がたつのでタバコ5本を口にえ、吸ってった。
単純
らはそれを見てびっくり、喜んだ。

そして私はしい時など厨房内をる、
それをウエイトレスらは不思議そうな目で見る。
彼女達には早く動こうとする習慣はない…

をかき、動き廻る私を見た彼女達はそれを理解できなかったのでしょ〜。

のレストランをいて見てもそうだ!
レジに長い行列ができる、人がんでいてもてる事など絶対しない。
職場の分担だってそうだ、
の人でわれていようが手伝
事はない!
しかし追われている人もべつに様子もなく淡々と仕事をしている。

これが習慣風習いなのかも知れません?
近頃の日本だってボチボチそうなりつつある様な気がします。

そして私の最後の日課がそのウエイトレスを家まで送る事でした。
英語の練習でもなるかと思い当初は彼女に話しかけた。
しかし中々じず、しまいには腹がたってめてしまう。

しかし夜のドライブはホント気持ちが良かった、
ムーンライトにらされた夜のビーチは何とも云えないぐらい素晴らしいものだ。

やしの木と浜辺せる波のは映画の世界をじてくれる。
もしこれが恋人同士ならそれはもう夢の世界の様に思え、
を忘れた空間を作ってくれる
素晴らしい光景である。

しかししいかな今のこの現状、私ののべっぴんさんは暗闇に光る蛍の目
おまけに口はタラコをしたっ黒いっている。
そらもうムードなどなしってった感で帰るしかなかった。

現実に
った私は早くろって……アクセルをのでした。



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